東日本大震災から10年
東日本大震災、それぞれの思いの中で10年を迎えました。
世界的大事故とともに、東北地方に未曾有の惨害をもたらした。
今、テレビ等のマスコミで、この未曾有の惨害の情景が繰り返し放映されている。
西村眞悟氏の言葉が仲間の間に掲載されたので一部を紹介する。
この大災害の危機のなかで、天皇陛下は、明らかに我が国の高貴なる権威であり統治者であられた!
天皇陛下の、国民へのお言葉、そして、被災地への行幸啓によって、被災地の国民は、奮い立ち助け合い頑張ることができた。
国民が一つの家族であることを実感させる統治者を戴く国が、世界のどこにあろうか。天皇陛下の3月16日の「お言葉」は、「何にもまして、この大災害を生き抜き、被災者としての自らを励ましつつ、これからの日々を生き抜こうとしている
人々の雄々しさに、深く胸を打たれています。」
「自衛隊、警察、消防、海保の皆さんの、余震が続く危険な状態の中で、日夜救援活動を進めている努力に感謝し、その労を深くねぎらいたく思います。」
その上で、天皇陛下は、各国の元首から陛下に送られてきたお見舞いの電報を
国民に宛てられた励ましとして紹介された。
この大災害において、全生存者救出数の7割に当たる約2万人を救出するという
圧倒的な働きをした陸海空10万7千を動員して救出部隊を編成し、動員期間2百91日、延べ1066万人という空前の活動を展開し、前記の通りの人命救助の成果を挙げ被災地復興に貢献した。
その活動中に、被災地激励とお見舞の為に自衛隊機で松島基地に降り立たれた
天皇陛下に対し、救出部隊の長である君塚栄治陸将は、正対して敬礼した。
東京の自衛隊の中枢では、折木良一統合幕僚長に「部隊を集めます」と宣言し、
直ちに「全自衛隊、すぐに飛び出せ」と号令を発した。
また、被災地のど真ん中の多賀城では、多賀城駐屯の陸自第22連隊の國友昭連隊長が、射撃訓練場からの帰隊途中に強い揺れを感じた直後、車両の中から上級司令部である第六師団に電話して師団長に一言、
「出します」と告げ、22連隊総員900名は直ちに救出活動に突入した。
そして、4775人を救出した。
自衛隊が救出した1/4は、22連隊が行ったことになる。
初動が如何に大切か。身を以てこの「戦訓」を示した。
次は、隊員を家族のもとに帰らせずに救出活動に没頭させた國友昭連隊長が常に所持していた隊員の手記である。
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私の妻も息子を救助に向かう途中で津波に襲われ、車両もろとも流されました。
その状況を私が知ったのは更にその後、30分後でした。
まだその時、細部任務を付与されていた訳ではなく、携帯で連絡をとれた時の妻「助けて・・・」という
寒さと恐怖が入り交じった震え上がった心のそこからの悲痛の叫びを聞いた瞬間、私の中で迷いというか、このまま部隊を出て、1分1秒でも早く妻の處へ飛んでいきたいと思いました。
そしてその心の苦痛から答えを探していた時、再度妻から連絡があり「大丈夫だから、他の人を助けてあげて」。
その言葉に我に返りました。
そこからはもう迷いはありませんでした。
最後に、今まで陰ながら支えてくれていた妻と息子に、お礼を言いたいと思います。本当にありがとう。
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16年前の村山富市総理大臣の命令を待って時機を失した阪神淡路大震災の時と同じ結果になり、
多くの助かる人々を死なすことになっただろう。
阪神淡路大震災における自衛隊の救出者は、165人で全救出者数の三%に過ぎない。
海上自衛隊は、地震発生から6分後に、史上初めての「全可動艦艇出航」という命令を発した。
則ち、動ける艦艇は総て被災地に近い三陸沖に向かえという命令だ。
ドックに入っていた船も予定を切り上げて出航した。
これを観たアメリカ海軍の幹部は、「これほど迅速に全艦艇を出せる海自の能力は世界一だ」と自衛隊幹部に言った。
シビリアン・コントロールとは、軍隊を動員して他国と戦争をするか否かの決定は、国民に対して最高の政治的責任を負う内閣総理大臣(日本)の専権事項であるということだ。
つまり、軍に国家の運命を委ねるか否かの決定は総理と大統領がするということ。
同時に、一旦軍に戦闘を委ねたならば、軍のオペレーションの領域に文民はみだりに介入してはならない。
従って、シビリアン・コントロールという概念は、災害派遣や人命救助や、例えば尖閣領空・領海侵犯の航空機や艦船を撃墜し撃破するか否かに適用されるものではない。
福島第一原発の爆発
自衛隊の偵察ヘリによる放射能測定では、放射能は、爆発した原子炉建屋から上空に「割り箸を立てたように」伸びているという。
人間が近づけない危機的状況であった。
しかし、
折木統幕長と火箱陸幕長は決断した。
そして、3月16日23時30分、中央即応集団の宮島司令官が、隷下の金丸章彦第一ヘリコプター団団長に「あしたは撒け」と命令した。
CH47チヌーク2機が霞目駐屯地から飛び立ち、わずか三日前に爆発した原子炉建屋に向かった。
2機は午前9時四40分から10時の間に、4回、原子炉に約30トンの水を落とし実際に放水している映像を見た中共軍の将官は言った。
「日本人は、戦前と戦後、ちっとも変わっていない。
簡単に命を懸けてくる。
もし日本に核弾頭ミサイルの照準を当てて発射準備をしれば、日本人は、確実に、飛行機に爆弾を積んでミサイルに突っ込んでくるだろう。」
次に、世界が感嘆した被災地の日本国民の姿をアメリカの救援ヘリの女性機長が書いた手記を紹介する。
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ある学校の屋上に「SOS」の文字を発見した。
そして、おそるおそるヘリを屋上に着陸させた。
何故なら、米国を含む世界の諸国では、救援物資を運ぶヘリに被災者が集まって収拾がつかなくなるからだ。
しかし、着陸してみると、年配の男性が一人静かにヘリに近づいてきて、被災者が数百人いるという。
救援物資を渡そうとすると、皆、静かにバケツリレーで受け取った。
他の國にある物資の奪い取りなど全くなかった。
そして、もうここでよいという。
まだあるといって渡そうとすると、キッパリと断って、他の場所にいる被災者に渡してあげてと言って、どうしても受け取らない。
さらにけが人を運ぶというと、足を骨折した老人が申し訳なさそうに乗せられた。
この日本人の優秀さと精神性の高さは、
アメリカ軍の公式記録に載せられる。
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丁度その時、「文藝春秋」誌に
被災地の犬とネコを救助する民間組織の原発周辺地域での活動報告記事が出ていた。
それを読むと、菅内閣は、犬とネコを救うために原発周辺に人が入ることを認めたが、人を救助するため、遺体を収容するために、人が入ることを認めていない。
そして、その記事には、海岸周辺に人の遺体が点々と横たわっているのを見たが、
私たちは、犬とネコを回収することはできても遺体収容は許されていないので、
ごめんなさいと言って通り過ぎたとある。
それを読んで、私は、怒った。
確か、菅直人は、総理になった時、自分が長州人であることを強調し、自分の政権は、幕末に長州に出来た奇兵隊のようにしたいと言っていた。
その奇兵隊は、戊辰戦争で会津地方に侵攻して、白虎隊など、戦死した会津藩士の遺体の埋葬を禁じ、翌年まで数ヶ月間、遺体を路上に放置して見せしめにした。
菅直人政権は、百五十年後に、これと同じことを、している。
私は、遺体となって原発周辺に放置されている人々の知人や身内かもしれない猪苗代に避難した双葉町の人々に、講演で言った。
菅直人は間違っている。
西村氏は言う。
10年後の今、東日本大震災を振り返り、しみじみと、明治天皇の御製、を思う。
「しきしまの大和心のををしさはことあるときそあらわれにける」