令和6年、明けましておめでとうございます

新年明けましてお目出度うございます。
  1年の計をこめ、初日の出を見に行かれましたか。

      

 1月1日に上る日の出は、年神様神々と一緒に上る豊かさと安寧を求め手を合わす。
  この年になると、その合わせる手は「健康第一」「家内安全」「身体健全」が主となるが、初日の出を見ながら1年の計などを図る年始めの決意の時とも言える。
 昨年の思い出・反省などを踏まえ今年は・・・と思う一瞬でもある。そこで思い出となる出来事をあげてみた。
1 叙勲受賞。5月8日、県知事から伝達され、15日皇居に於いて天皇陛下に拝謁する  機会を得た。
2 二男和貴の3回忌、母の3回忌
3 結婚50周年
4 書道教室から生徒の昇級・昇段者のうち成家に2名、春には、高校生になった4人  が書を継続し一般部に編入
5 風呂給湯器など交換
6 東松島市家族会会長退任
7 自衛官募集相談員10回目の委嘱
8 あおい地区広報担当業務継続
9 第18回書道協会書作展の実施
10 出合い(原田氏・黒澤氏・19期生60周年記念・各種ボランティア団体など) 

 激動の国内外、かつてない猛暑の襲来は、諸生活に大きく影響したが長く続いたコロナ禍の生活が終わり一気に開放感あふれた生活となったが、戦後一貫して平和国家としての道を歩み、アジア太平洋地域や国際社会の平和と安定を実現しようとしている日本の安全保障政策は難しいかじ取りを迫られている。
 世界では、イスラエルハマスの対立が続く中東情勢、米中対立、ウクライナ情勢など、日本を取り巻く国際情勢、安全保障環境はめまぐるしく変化しています。
 世界の分断が深まる中、気候変動など国際社会が連携して取り組むべき課題は山積している。
 日本国内では、少子高齢化が進む中、既存の経済産業・社会構造等の刷新が急務であり、押し寄せるデジタル革命の波を、諸問題の解決に活用できるのか、いま、分水嶺に立たされているとも言える。
 どうする日本ではないが、メデアが中心となる各情報をみると無関心・無責任・無気力・利己心など本来日本人が持つ文化的精神的気質が米国の占領政策の遺物か戦後の人々を大きく変えた一面が今後も続くと思うと恐ろしい。
 想定外が横行する現社会で安保体制の充実が望まれるが80歳過ぎると積極的・継続的に事をなすことが困難となった。
 やや消極的になったが、今年1年静かに老人生活を全うしたいとも思っている。
 そこで、今年1年無難に生きるため
1 あおい地区広報業務の充実・・・高齢者支援事業の推進
2 書道教育の充実(心の充実)・・・「游心」「利他」の精神を強調
3 申し送り(後輩へのバトンタッチ・継承)
  想定外を少なくし、もう一度健康第一、静に何事も前進の精神で日日前進しましょ  う。皆様のご健康とご多幸をお祈りします。
4 月に一度は、時を振り返りたい
5 最後に想定外は、もうごめん。・・・日頃から事象の研究を怠らない。

 

 

 

「石巻千石船の会」研修旅行

 9月24日(日) 「石巻千石船の会」日帰り研修旅行が17名の参加行なわれ参加しました。
 コロナ禍では中止もありましたが、毎年計画されている恒例研修、コロナ禍前は、1泊での行程でした。
 研修先は、①陸前高田市博物館見学②津波伝承館・道の駅③碁石海岸レストハウスで昼食④大船渡気仙丸見学⑤気仙沼大橋(鶴亀橋)を渡り大島周遊です。

 8時石巻駅前を出発、最初の研修先の陸前高田市博物館を目指し0940予定通り到着。
 当館は昭和3 4年に東北地方第1号の公立登録博物館として開館、 東日本大震災津波により施設は全壊し、貴重な資料も壊滅的な被害を受けましたが多くの資料はレスキュー・再生されました。
 約56万点の資料のうち、約46万点を救出し修復作業を継続しています。同じく壊滅的な被害を受けた「海と貝のミュージアム」の機能を合わせて昨年11月に開館しています。
 「海と貝のミュージアム」に展示されていたツチ鯨の剥製は見える方の片面だけ修復されていました。

エントランスと復元作業
槇野富太郎博士展

 次は、津波伝承館・道の駅、2019年9月22日に開館しました。
 高田松原津波復興祈念公園内に位置し、道の駅高田松原を併設するほか、同公園内では「奇跡の一本松・高田松原ユースホステル津波の悲劇を繰り返さないために、津波の事実と教訓を後世に伝えるとともに復興の姿を国内外に発信することを目的としています。
  周辺には、高田の松原は江戸時代から植えられたクロマツ約7万本がありましたが、奇跡の一本松を残して全滅しました。
 現在は再生事業で約4万本のクロマツの苗が植えられました。津波伝承館に併設された道の駅が在り多くの観光客などが訪れていました。

 昼食は、碁石海岸レストハウス。昼食後約30分の散策でした。
 昼食後、雷岩(かみなりいわ)と乱暴谷(らんぼうや)、千代島、碁石岬、を散策しました。

 3番目の碁石海岸は、碁石のような扁平な石(黒色の泥岩による円礫)を主体とする海岸、および、周辺の観光エリアの総称で三陸復興国立公園に属します。

 
 4番目の研修地は、大船渡気仙丸見学です。
  気仙丸は平成4年の「三陸海の博覧会」において復元展示された船で、「気仙船匠会」によって造られ、「三陸・海の博覧会」の後は、海上に係留され、夏まつりなどのイベントや、NHK大河ドラマ菜の花の沖」「龍馬伝」などのロケにも利用されていましたが、令和3年、建造から30年が経過し、船体の痛みも大きくなったため、陸上展示補修、補強工事し耐久性強化のため液体ガラス塗装を施して、大船渡市防災観光交流センター付近(かもめテラスの近隣)されています。
 気仙丸も1 9 9 9年と2 0 0 3年には体験乗船もしています。気仙丸は3 50石積、全長約18 メートル、幅約5. 8 メートル、帆柱高 さ約17 メートル、16反帆、重量約2 3トンです。現在、千石船の復元船は日本に4隻ありますが、すべて「気仙船匠会」が関わっているという事です。

気仙丸船内

 5番目は、「気仙沼大橋(鶴亀大橋)」です。
  0219年4月7日に開通したアーチ橋で支間長は297メートルで東日本最長で、全国でも3番目の長さです。橋げたは重量2700トンあります。東日本 大震災で孤立した大島の復興のシンボルでもあります。
 橋桁の高さは水面から約 32メートルあります。
 最後の研修場所でもあり、全員歩いて橋をわたり午後の涼しい風を体いっぱいに浴びながら初秋の訪れを満喫しました。

龍舞岬、全員で記念撮影

 

 帰りのバスの中では、事務局長の本間さんに感謝を述べての研修雑感を各人紹介し思いに慕っていました。
 30遅れて石巻駅前に到着し、来年の企画に期待し散会しました。

3.11 震災雑感④

 記録の最後に、私が体験した震災の状況を一票ににしているので画像で掲載します。

次に、概ね発災から①私有看護の17日避難所は、避難者独自で運営することの重要性を説き、以下の各係を実情に合わせ組織し、次のリーダー、会長および各部屋長・係長になる人々に申し送りした。

 当時は、これがベストであり今後は実情に合わせ変更充実することの重要性を説明した。

 東小学校の入学式に合わせこの頃までには、教室に避難している方200人以下にすることができた。



3.11 震災雑感③

引き続き、掲載します。

避難場所の今後です。今でこそ震災時の経験の元に職員起用行く、各自治会への働きかけ、そしてメデアや教育史研究視野の皆さんが避難時よ運営のあり方などについて各方面で講義活動など行なっているが、大切な避難者とはの研究が不十分とみられ、「このときはどうす」などの活動を行なっているが、震度⑦の時心と10メートルを超える津波を自ら経験し、家族を亡くし、いえを流された状況をその場で見ながら避難していた状況をつぶさに確認しながら運営し生かしていったかとは、考えにくい。

忘れる前にと思いながら自らの記録や体験を元に綴ったのが本冊です。細かいことは削除しつつの記録ですが引き続き参考にしてもらえれば幸いです。

 

5 学校の避難場所としての今後のあり方
(1)受け入れ
仙石線より北に位置する東小学校は、今回の災害 における避難場所としては適し
ていた。耐震化されていたこと、収容スペースが大であったこと、ただし、現状から
1,500人程度が限度であった。
土足のママで室内に避難させたがこれで良い。
(2)避難者名簿作成のあり方
避難者が当学校に多数殺到したが、自然のなりゆき。これだけの大災害、全国各地からの問い合わせ、家族や知人などの問い合わせで奔走した。
結局は各部屋にもう一度書いてもらい、ドアに掲げたり、玄関に掲げたりした。
コピー機がなかったため全てが手書きであった。
(3)食糧・備品などの備蓄
前記したように、避難所となっている学校に食糧や備品などの備蓄がなされていなかった。
備蓄倉庫は、近年準備中であり内容も不十分であった。
要は、子供のための備蓄もなかったと言うことに着目しなければならない。
水も食糧もない、消耗品もない、懐中電灯やローソクもないでは避難所としての用を足さない。
(4)予備発電気(発動発電気)
今回の様に長期間水道・電気が不通となることは、予想していなかった。
水道や電気がなくとも今回の状況では工夫すれば何とかなった。
避難所における生活の中で、多くの人に等しく情報の伝達をしたり、情報の共有
をはかるシステム作りが必要である。施設や整備があるのに電気がないため使用で
きなかったもの、避難者と生活状況を共有するため部分的にも区別をすることがな
いように努めたことは確かであったがせめて2系統程度あるともっと避難者に対す
る支援が充実できたもの思う。
(5)各種ボランティアの受け入れ
態勢が整いある程度避難所での支援ができるようになってから一部ボランティア
が入ってきた。此処で大切なのは、この避難所では個々での受け入れは注意を要す
る。個人の能力、目的などをどこに置くのかである。知人であったので受け入れお
手伝いをいただいたもの、ボランティアセンターをとおしてもらったものと多種あ
った。
6 学校の避難所としての整備のあり方
今回の経験を記載したが今後速やかに整備是正すべき事項の概要について記す。
ただし東小学校を前提としたものであり、これを参考に各地区毎学校毎に整備の基
準を考えていく必要がある。
(1)避難所の受け入れ態勢整備
学校に先生方がいる前提
ア まず各階段毎に先生を配置し、2階以上に誘導する。
土足のママ、まず校内に入れる。
イ あらかじめ各階段担当先生を定めておく。
バックアップも含め
ウ 細部手順を定める。
・教室利用上の注意
・備品の取り扱い。
・設備の利用方法
・駐車要領
・地域及び行政防災担当者との連携
・情報の収集伝達要領の整備
・その他
エ 情報伝達要領の熟知
・無線機使用要領の周知
・報告内容の様式化
オ 各教室にテレビ・ラジオなどの情報入手ラインを整備する。
(2)避難者の名簿作成
webを活用しての避難者の安否確認が盛んに行われることから、情報が発信さ
れやすいような態勢を整備する。
・避難者名簿様式の策定及び配布要領の整備
・〃 の本部との共有を図る
・避難者の状況の確認明示(要介護者・負傷者状況など)
(3)備 蓄
食糧及び備品などの備蓄を進める。
ア 食 糧
児童生徒の預かり保護の関連から、一定期間(検討を要する)の水・食糧の備
蓄を考えていく必要がある。
イ 消耗品の備蓄化(紙・鉛筆・マジックなど)
ウ 懐中電灯などの準備(各教室ごと)
エ 毛布・畳などの用意
- 8 -
オ その他、今回利用したり支援を受けた物資の確保
(4)生活必需機材の準備
ア ストーブ、冷蔵庫、洗濯機の確保
電気配線、下水道の完備
イ シャワー室
ウ ポット、ガスコンロなど
(5)特に生徒や子供を通じての避難所支援態勢の確立
高学年を中心とし、こころのケア的活動が積極的にできる態勢を確立する。
7 自己完結の準備
災害時の準備として自宅でさしあたり準備すべき物資等について意外に準備されて
いないため気持ちに余裕がない。特に流失を逃れた被災者に余裕がない人が多かった。
日頃の準備として少なくとも子供を通じての備蓄の必要性を徹底する必要がある。
8 結 び
今回の震災は、東小としては、避難者受け入れに関しおおむね良好の評価に値する。
しかし、何となく物足りなさも感じたことは確かである。
自主防災組織のボランティアの面々と良く意思の疎通を図りながら避難者への支援
を行った。自主防災組織ボランティアとの連携が日頃からとれていたならより円滑に
行われたと考える。
今回の災害の反省として、東小ではすでに防災計画の見直しを行ったが、今後は、
教育委員会、市の防災担当課、地区防災組織、PTAなどとの連携が必要になってく
る。

また、情報の共有化のための動きをより多く行い、施設の重要性(学校施設の特質。今後は市の施設の目的性や必要性など)を説きながら活動することが大切である。
今回は、行政側のなすべき対応や行動などについては言及しなかったが、避難所に
派遣された多くの職員は、避難者対応が自主防災組織の責任との認識を持ちながらの
活動をしたが大きな間違いである。
行政の責任は、全てに優先して問われることを忘れてはならない。 

 

記録した写真の一部を紹介します。

 

次は、3.11の14:45以降の状況などを記載します。

3.11 震災雑感②

続けて②を投函します。

写真も少し原文より多くします。

 

 

 

エ 支援物資
3日目から物資が少しずつ入ってきた。15日、市からの助言を受けながら優先して最大避難民を有する東小へと、名古屋から毛布2,000枚が届いた。

その後日赤からの毛布や個人や団体からの古着などの物資の支援も逐次入るようになった。
15日を過ぎた頃からは、物資管理を専門に行う係を作って対応した。
食糧は、配膳室に、他の物資は体育館、日常すぐ使用するものは、本部で管理した。
オ 避難所での自活へ
避難生活が長期化することは予想できたが、何時の時点で第2次避難場所への
移行、そして仮設住宅へとスムーズに移動していくかがポイントだった。

約1,500人の避難者は、市内外から集まり、家が流失した人、家族の安否
が不明のまま一時的に避難している人、余震が怖い人、電気や水道が不通である
とが理由である人、地震で家が危険な状態である人、少したった後には、避難所では3食食べられることなどが避難の理由であった。

避難の認識には、それぞれ正当な理由であり弁別することができない。
役や係を設けることにより、各係とも時間を定めながら積極的に活動するようになっていく。
特に不平や不満の対処にはあまり口を挟まず関係者同士で解決するようお願いしていった。
カ 避難所の衛生管理
被災から数日は、この時期としては寒さの厳しい日が続き、雪も降った。
最初の心配は、風邪。そして持病のある人、環境激変に伴う精神的異常、健康
悪化、高齢者、障害者などとの接し方などであった。
簡易トイレや学校内トイレの扱い方(水洗便所の水の確保ができない)には当
初苦労した。
簡易トイレは、3日目、さらに2日後には増設された。

場所の選定もさることながら、使用手順や衛生管理が問題であった。手順の履行が悪いと不衛生となる。
トイレットペーパの管理、消毒など避難者が積極的に行ってくれた。ただ、高齢者や障害者の人などには十分気をつける必要があった。
消毒液などの準備については、当初から行政にお願いしていたので思ったよりは早く措置ができたように思う。


体の衛生すなわち入浴には、特に高齢者・要介護者については、関係機関との
調整の上行うことが大切である。
10日後には、基地の浴場が開放されたが高齢者の入浴支援には注意を払い、
なるべく元気な人だけを入浴してもらい後は社会福祉協議会などにお願いした。
キ 部屋割り
避難者の体調やニーズ応じて部屋割りをした。避難者の要望に多くの皆さんが避難所で同じ避難者のために活動した。
衛生看護、診察室、ペット室、子供部屋など避難者のニーズに応じて対応した。
(3)報告/連絡
ア 災害対策本部への状況報告
行政から常時二人の職員が張り付いた。


避難所運営は、ボランティアでと言うような間違った考え方をする職員が大半
であった。この背景には、行政は、手が回らず要望には100%応じられないと
いう考え方、そして今だ不十分な組織体である自主防災組織にその運営をゆだね
たいという考えが優先したためか、極端な言い方をすると市の責任を全く果たし
得なかったこと、また、市として避難所運営について職員教育を全く行っていな
い現状で望んだこと、これらは避難所運営に大きく影響した。
学校には、無線機が常備されていたため災害対策本部とのやりとりには大きな
問題はなかった。ただし、無線機の運用要領が定まっていないこと、電波状況が
あまり良くなかったことなどで若干の不具合があった。
イ 連絡調整
上記の様に報告、調整に関する問題の解決には、直接市庁舎に赴き行った。
災対本部にどれだけ避難場所の状況を詳しく知らせるか、報告できるかが鍵で
ある。幸い避難所受付住民等1,500人はインパクトが大きかった。
市も良く面倒を見てくれた。
毎日定刻に、各部屋長、係に対し被害状況や市の活動状況などを知らせた。
3月31日まで来毎日、その後4月10日までは3日毎程度に情報提供すると
共に、要望事項、問題点の把握に努めた。
ウ 行政指示等
市の意向、方針、方向性など避難所に対する指示は少なかった。
これらの不具合は、4月以降、学校を明け渡す事が決定する頃顕著に表れた。
ただし、明け渡しが比較的スムーズにできたのは、学校施設の重要性や授業再開
への情報を幾度となく知らせていたため、避難者に開放に向けての意識が増大し
ていったのが功を奏したものと思われる。
この中には、市内の被害の状況や活動状況などの情報伝達も大切である。対策
本部では、こうした情報伝達に対する心構えは皆無であったと考える。
避難者の情報(全市及び周辺地域の被害の状況)は、安否確認を含め重要な要
素の一つである。
(4)防災ボランティア
被災当初から約15名の地域の防災役員や近隣区長さんが避難所で活動した。
全員良く連携し、3月23日まで全力で活動した。
東小学校に共に避難した、東地区の防災協議会の役員が多数いたので統制を図るため、協議会会長の茄子川氏に代表をお願いした細かなことは代表して小生が動き1週間後の避難所での夜勤は交代で行った。

茄子川氏は、良く全般を統制した。
私を含め地域での防災活動に優先して行ったたため、地域活動に大きく支障を来
した。時々地元にもどると、避難生活を地元で行っている住民は過酷な状態であっ
た。ヘドロを除去する人、水を独自で確保する人、食べ物を探し歩いている人など
地域の防災組織やコミニティーは崩壊していた。
12日朝、学校内において、防災役員、自衛隊OB、中学生に対しボランティア
の呼びかけをしたが手伝ってくれたのは2名だけだった。中学生は皆無だった。
自衛隊OBなどの参加も少なく避難者になっていたのは残念であった。
ボランティアにはいろいろな働きがある。部屋長、介護係、衛生係、物資係など
積極的に活動に参加してくれた方には本当に感謝したい。
避難場所での自立を促すのも当初のボランティア活動には大切である。
また、学校管理者である校長との連携は欠かせない。
避難者の皆さんは、この後、4月20日まで東小にとどまり、その後1中、コミ
セン、蔵ッパなどに移転し、20日には全員が学校から出た。
(5)先生方PTAの応援
彼らは組織活動が比較的慣れているため、避難民に対する支援や我々ボランティ
アとの調整活動、運営は比較的順調に推移した。
学校独自の備蓄状況がよくわからないが、放送システムの緊急状況での利用方法
や水や食糧、消耗品などの備蓄もある程度必要と思われた。
被災当初の避難民への支援はより細かな支援手順書が必要なのかもしれない。
次にPTAの応援態勢である。今回も一部応援をいただいたが子供たちへの支援
や先生方との調整などに参画できればもっと助かった。

3.11 震災雑感①

 いわゆる3.11の震災から今年で13年目のお盆を迎える年になる。

議員を辞めて二年が過ぎ、地域で請われるままFBなどの情報発信係として時間を潰している。

 そんな中、震災後ボランティアで支援を続ける三重四日市大学の教授の計らいで今も尚中高生・大学生を対象として防災研修・ボランティア活動を年2回のペースで実施している。

 5.08.10 あおい地区小野会長の好意により、防災研修が行なわれた。

 地域で足湯の提供の後、昼食は地域の皆さんの震災経験を聞きながらの会食会、1時からは避難場所での心のケア、避難時運営などの講義、最後に移転後の町づくりについての講義をびっしり行なわれました。

 講義を聴いていて、避難所の安定期からの問題点と解決法など坐学的になっていることから、私の経験した内容とは随分かけ離れた内容になっていると感じ、今回発災から避難時運営の開始当初の重要性を知ってもらうために、今まで公開していなかった資料の一端を複数回にわけて提示したいと思います。参考にしてください。

 

 

 

震災雑感
24.1.1
1 はじめに
今回の東日本大震災においては想定していない事態に対する措置などが必然的に後
手の処置となって被災者に大きくのし上がった。
余震が続く中、各レベルすなわち「市民」「行政」「各防災組織」「避難所態勢」な
どさらに起こるであろう災害(宮城沖地震津波)に備える体制整備の早急の対応が
望まれる。
2 発災時の行動
発災時、3月定例議会の最終日であり一部事務組合等の報告会が行われいてた。
大きな揺れは、約3分程度続き議場内は大きな被害を受けた。すく様議会は閉会し、
各議員はそれぞれ地元へと散った。小生、防災交通課の職員に「速やかに対策本部の
開所」を促し、自宅へ戻った。
(1)被害確認
自宅では家の中を片付けていたがすぐ孫の迎えに行くよう促し(徒歩で)、小生は防災本部立ち上げのため、関の内児童公園に向かい防災倉庫から所掌のの用具などを準備し、区長と共に区内を巡回し異常の有無を確認した。
幸い、倒壊家屋はなく一部電線のたるみの家が1軒あったのみだった。
防災無線では「大津波警報発令」とか、うろ覚えだが「女川で10メートルの津波」「6メートルの津波」と言うのがきこえた。
区内の複数の人から、「津波大丈夫ですか」の問いに、「大丈夫、6メートルの津
波でもこの辺ではせいぜい50㎝程度たいしたことはありません」と間違った判断
で安心させていた。
防災担当役員と次の対応について相談し、市への報告や閉所の準備などを行った。
そんなとき、おおむね午後4時ごろ、浜須賀の区長さんが「津波だ逃げろ」と言
いながら北に向かった。
公園から南の方角を確認すると無いはずの作業用プレハブやガレキが迫ってくる
のが確認された。
すぐさま50メートルほど南下しながら、「津波です。速く逃げてください」とメ
ガホンで叫びながら情報伝達し、避難を促した。
午後4時10分、北上する津波を確認しシャッターを押した。


(2)避難
その後、自宅に戻り避難準備、弾帯、ペットボトル、財布、カメラ、懐中電気など
を持ち車両での避 難をすることにした。しかし、いつものところには鍵はなく結局
徒歩での避難となった。
途中、10分程度歩道橋で津波来襲を確認した。
3 避難誘導と避難所の受け入れ
(1)避難所への受け入れと移動
東松島市には、100個所を超える避難所が存在し、発災時は一時的にはその
場所が利用されたが津波の襲来で津波被害の少ない場所への避難となりかつ指定
場所以外の民間施設等への避難も数多く見られた。大曲浜のように津波予知によ
って整備された高台に避難した人々のほとんどが被害に遭ったり、渋滞(車によ
る自然渋滞、停電による信号不作動による渋滞、仙石線野蒜駅付近による信号機
誤作動状態による踏切付近の渋滞など)や津波の侵入速度が速かったため自動車
の流失に伴う被害など広範囲において人的被害が発生した。
津波発生により、地域の避難場所は次々と不適となり北へ北へと移動すること
になった。
イ 矢本東市民センター
センターには、約50名程度の下町・作田浦地区民を中心とした避難住民がいた。津波が国道45号線を超える旨の情報を提供すると下町地区の自主防災担当役員が主となり東小学校への避難を促し、全員が移動した。
ウ 東小学校
午後4時頃から避難者が殺到した。
校長をはじめ、先生方は積極的に市民の誘導に努めた。
この際土足のママでの侵入を許可し、2階3階の教室を提供した。避難者は、
い思いに各教室に避難拠点を持った。
5時頃には、第1次の避難者は1,000人程度であり情報入手をまった。
5時20分頃、状況確認のため仙石線まで南下したがこの時点ではすでに下町
の踏切まで冠水していた。
5時30分、22普連の偵察隊員が情報入手に駆けつけていた。
災害対策本部への連絡と部隊調整についてお願いし分かれた。
午後6時、再度学校に戻り今後の対策について茄子川東地区自主防災連合会会
長と調整し、今後の対応は、会長を中心として行動するよう意見集約をした。
この後、各教室を回り自衛隊OB、自主防役員、その他ボランティアを募った
が賛同者は少数だった。



12日の朝には東小学校の避難者は、1,445人となり地区最大の避難住民
受け持つことになった。
避難者の状況については後日はっきりするが、大曲浜の人、関の内の人、大溜、
四反走、下浦、作田浦、石巻市仙台市から避難してきた人もいた。
いわゆる、家を失った人、床上浸水、地震により半壊した人、余震が怖くて避
難している人、停電や水道が出ないため避難してきた人が多数いた。
(2)避難所生活
約1,500人の避難を受け入れの次は、必然的にさしあたって、夜の防寒対
策と朝食処置であった。
ア 防寒対策
市からの毛布などの支給は、人員の半分であり二人で1枚で当日は寒い夜を過
ごした。夕方からは、雪だった。
この日は、避難所での防寒対策不十分であったが肩寄せながら1日限りとの認
識を持ちながらの対応であった。
後には多くの情報が入り津波被害を直接受け海水につかった人は、低体温とな
った人が数多かったと聞く。



イ 配食(食事/水など)
自衛隊では、特にパイロットは保命訓練と称して夏・冬2回、夏海上及び冬山
岳で訓練を受けてきた。
航空機から脱出後海上での保命要領、山岳地域での保命の要領について学び訓
練したものである。
「脱出後は、3日間は飲まず食わずでも大丈夫。」を思い出しながら、避難者に
頑張るようにお願いした。
幸いにもある程度水が手に入った。井戸水を複数の農家の人からいただいた。
12日の配食は一応できたが1日1食、2日目は2食、3日目から3食届くよ
うになった。
この頃は、少しでも口に入ればと思い、少量の食事を分け合って食べることができた。
この頃賞味期限3日遅れのおむすびの特徴(口にするとぼろぼろ落ちる)をしり、菓子パンは、においがきつくなり、食パンは、以外と長持ちすることなどがわかった。当初の一週間、先生方の統制がとれた配食活動や配食管理に助けられた。
配水は大変だった。
当初は一人500ccだけとした。
飲み水としての配水だったが幼児のいる人には温水も用意し優先して配水等行った。また、残余は備蓄を考えての配水配食だったので夜は必ず複数での不寝番活動(水・食事の番)を行った。事実若干のトラブルもあった。
3日後からは、全教室等の室長を定め、5日頃からは自然と避難所生活が長期
化することを予想し、役割を決めた。たとえば「給食係」「配水係」「衛生係」「物
資係」「受付係」「救護係」「清掃係」などである。
17日頃からは、避難所運営は、おおむね順調に推移していった。



ウ 避難者の健康管理
一日目、二日目は、健康を害した人が多発した。
特に一日目は、救急車での搬入要望が多かったが市内には救急車が一台だったこともあり苦労した。
学校にあった薬や近所からの救急薬品の入手により当面の介護などの活動を行った。当初、救急医療施設は、真壁病院、日赤、藤野整形などの中核病院の一部が対応できる状態であった。
救急に搬出しなければならないような人以外で介護の必要な人を1個所に集め
集中的に面倒を見るようにした。介護に当たる人が多数おり感謝した。
ただし、要介護者や精神に異常が出てしまった人、独り身の高齢者の人などは
社協や市にお願いした。
5日頃からは、医療チームが入ってきたので助かった。
医療チームが活動しやすいように診療室を設けた。勿論各部屋での診察活動等
も行ってもらった。
風邪の惹いた人などは、隔離できるように心がけた。
風邪薬程度の医薬品はこの頃から支援物資として入手できた。

 

                                新春を迎えて

 今年は令和5年、2023年、「癸(みずのと)卯(うさぎ)」年、兎には跳ねる特徴があるため、景気が上向きに跳ねる、回復すると言われており、株式市場にとっては縁起の良い年として知られているようです。
 また、卯(うさぎ)は穏やかで温厚な性質であることから、「家内安全」。また、その跳躍する姿から「飛躍」、「向上」を象徴するものとして親しまれてきました。他にも「植物の成長」という意味もあり、新しいことに挑戦するのに最適な年と言われています。
  過去のウサギ年、どのようなことが熱田の家WEBを見てみたが

1963    大阪に日本初の横断歩道橋完成。三井三池三川炭鉱炭塵爆発事故。初の原子力発電成功。
1975    山陽新幹線岡山駅博多駅間開業。第二次ベビーブーム。東映京都撮影所内に東映太秦映画村が開村。
1987    地価の異常高騰。財テクブーム。利根川進博士、ノーベル医学・生理学賞受賞。銀座で1坪1億円を突破。
1999    東海村核燃料加工会社で国内初の臨界事故。住友・さくら銀合併、第一勧銀など3行統合と金融再編大展開。しまなみ海道(本州四国連絡道路 尾道今治ルート)も開通。欧州に新通貨ユーロ誕生。
2011    東日本大震災原発事故で甚大被害、なでしこジャパン、サッカーW杯優勝。歴史的円高、一時1ドル=75円32銭。
 とある。
 今年、この東日本大震災の13回忌加えて和貴、母の3回忌の年になる。
 令和4年の活動状況と国内外の状況を振り返りながら今年の生き方の一端を考えてみた。 
1 回 想
    議員を辞めて2年目、コロナ禍でもあり公務や私的行事はかなり減り自由な時間が増え、健康第一を唱えた割には、カロリー増加が気になった年でもあった。
    月ごとの行事をひもといてみた。
(1)1 月
    新春祝賀会話皮切りにウエルネス宮城高校での日本文化としての書道文化教育。
    コロナの接触者として初めてPCR検査を受け陰性であったが教室を2週間休んだ。

 コロナ禍での生活の困難性を身近に感じた。

授業風景



    また、22年以上も続いた「上田つとむ後援会」を解散した。
(2)2 月
    家族会石巻地区協議会の再編に向けて本格的に活動し、組織再編作業を開始した。
(3)3 月
    由の中学校卒業と高校入学は、二男和貴の居ない寂しい祝事であったが三兄弟の行く末に期待したい。
    27日は、無事一周忌を清泰寺で終了した。

清泰寺で供養



(4)4 月
    久しぶりに遠刈田温泉に一泊。写真撮影と史跡巡り(蔵王・山形城趾等)、花見を楽しんだ。各種行事もコロナ禍での限定された中であったが参加することができた。
(5)5 月
  基地の観藤会、自動車高齢者講習会の実施、宇都氏選挙対策開始、東小大運動会が行なわれた。
(6)6 月
    協議会の再編。海軍航空隊慰霊碑献花祭。図南展。サクランボ狩り。
    なんとなく忙しく行事に参加。
(7)7 月
    翔友会総会出席(日帰り)。母の一周忌で北海道へ、帰りは函館で1泊。

翔友会

母1周忌(登別)




(8)8 月
    例年通り慰霊碑清掃。今年は、願成寺。基地准曹士会メンバーも多数参加。ワクチン4回目接種。
    月末は、夏祭り、入場者限定の航空祭の実施。





(9)9 月
    あおい地区で新聞づくり、FB記事掲載等を依頼され活動開始。
    月末は、陸自方面隊行事(音楽祭・記念行事)参加。
(10)10月
    東松山市にサツマイモを届ける。森田市長に挨拶。
    東松島市文化祭に書道協会として参加。



    26日、松島基地殉職者追悼式に自衛隊家族会会長・新生つばさ会代表代理として参加
(11)11月
    コロナ禍のため3年ぶりに家族会研修会を行なった。初めて市役所の公用車を利用したため、参加者22名多賀城駐屯地を研修することができた。
    例年9月に実施していた「宮城武の会総会」を実施、方面総監の講演と懇談会を行なった。
    25日5回目のワクチン接種を行なった。
(12)12月
  東松島市書道協会書作展を矢本市民センターで実施。例年より少ない244名の入場者が在った。この際初めて、「硬筆の部書初め講習会」を行なったが7名の事前参加者が参加した。 



    22日、基地餅つき大会が行なわれ家族会会長として参加した。

基地餅つき



2 地域での動き
  恒常の行事は、コロナ禍での行動の制限はあったが計画通り行なわれたように思う。    個々の判断によるものも多かったが増加傾向のある中、コロナ拡大防止対策を施しての企画・実施は欠かせなく多様性という。
    言い換えると、それぞれの意見や活動は個々の思いを100%満足するとなるとすべてが正しい事になり反対論はなくなり議論ができなくなる。
    反対する人は他の意見を受け入れなくなるからである。
    よくある、反対のための反対をする人たちがそれであり持論だけが正しいと押しつける。彼らには、想像と発展はという事は存在しない。
    民主主義の論議を多様性を認めると「乱れ」や「争い」となる。令和4年は、そんな世の中であったと思う。
    あくまでも私見だが議会の顔も全く見えない年でおり、創造性なき議論を重視した結果である。理由がわかるかな?
3 国内外情勢
(1)領土・領空・領土
  12月31日の朝、ニュース速報が流れ来た北朝鮮がミサイルを発射した。
  今年73発目となるが良く金が続くものだ。アメリカに対応するために完成を急いでいるようだが有効性をどこまで追求するつもりが不明である。制度や効果はどうなのだろうか。
  中国も我が国の領土を奪取すべく、領海・領空を侵犯を継続している。作戦遂行能力の有無を推し量ろうにも考えているだけで行動に表せないとすると、思うつぼである。対処能力がないと即、他国の領土を奪取する。
  台湾有事を踏まえて準備を怠ってはいけない。
(2)ロシアの侵攻
  令和4年2月24日、メシアは、ウクライナに侵攻した。早期に決着をと試みたが今なお戦果を満たせていない。  
    ウクライナの被害は絶大だと思うが、その継戦能力は驚異的である。国家総動員令が発令された後多くの国民が国を離れた。一体この国の国民は?と思ったが家族の安全を確かめた後、再び母国に入る姿を見た。
    此が今の東部南部地区での奪還作戦の強い力になっていると思う。
    EUや米国の各種の支援も絶大だが日本もできうる限りの支援を継続的に行ないこの侵攻を止めなけねばならない。
    陸続きの地勢ではあるが国土を守ろうとする母国愛には感動した。
    日本はどうかな?
    戦うのは、自衛隊ののみかもしれない。自衛隊以外は、親敵性国家民?的行動をとるかもしれない。日本は、そんな国にしたくない。
    この戦いで近代戦の様相が大きく変化した。ドローンや電子戦の重要性が表面化し、 世界中で次の戦いの準備が進められているように思う。防空戦闘能力、戦術戦法の変化に伴い戦力の無人化・反撃能力を充実が問われるようになった。
    予算面の確保が話題となってきたが、即増税へのアプローチをすると今の日本人、手法を目的にしてしまうので反対議論が評論家氏、防衛予算の確保が困難になる可能性がある。
4 防衛議論の充実
    国会議員には困った物だ 。
    6月、阿部前総理が凶弾に倒れた折統一教会信者と政治活動にメスが入れられ国会が紛糾した。
    結果として、4人の大臣の辞任が続き、「すくにばれる嘘は嘘でない」などという言葉も横行した。嘘はすぐばれることを理解できない、自分の行動を律する事のできない責任の取り方を知らない議員の多いことには幻滅である。
    さて、本題に入る。「安保3文書」が改正され、防衛予算はGNPの2%に上がることになったがその後の議論がいただけない。
    予算が確定し防衛力が実際に戦力化されるのに10~15年係る。日本だと20年程度係るかもしれない。地方自治もそうだが予算確定後次年度には即動き出す予算の周りに翻弄され防衛整備の奥深さが理解できない政治屋が多い。
    今日、東南アジア、極東アジア東シナ海などの動向を見ると、あと5年稲井には中国が台湾を攻撃すると言われている。
    今の議論でこの5年間で日本国を外国からの攻撃侵入からこの国土・国民・財産を守ることができる友好な戦力ができると思う日本国民のなんと多いことか?
    戦場での反撃能力とは、すべての戦闘行為の範疇である。
    反撃能力なくして防衛議論はあり得ない。
    今の日本、他国からの侵攻で1週間と持たないし、自衛隊は戦うことができない、国土が焦土化されても話し合いでという野党を中心とした議論の希薄のことか、考えただけでも悲しくなる。
    我が国が目指す基礎的防衛力とは、統合防衛力構想とは、随分前から問われており、特に私が航空支援隊長の時の頃から平時/有事を問わず統合防衛作戦の重要性を説き、日米共同の質の向上を目指してきた。やっと今目覚め始めた。
    あの頃から約30年以上経つ。
    これらの防衛議論は、地方議員には難しくまして、増税の話が横行するいま防衛予算の増額に反対し、自衛隊戦力の増強充実に反対する議員が多くなることが心配である。
5 国土問題
    東シナ海魚釣島周辺、竹島北方四島と領土問題がある。実効支配や一方的歴史認識に基づく侵攻は消して許してはいけない。
     さて、「北方四島の日」は、2月7日である。
    今ロシアによるウクライナ侵攻でもわかるようにロシアは、この四島を返す気がなく次は北海道もいう気がする。
    2月7日には全国的に集会が開かれ、今も尚中学生による交流も行なわれている。そして、返還はされていない。
    返還のための署名活動は今も尚継続されているが、ロシアの侵攻の時だからこそ継続し、広く国民の返還機運を助長すべきである。
     竹島については、依然として韓国に強いやられている、必ず奪還するという強い意志を持ち外交活動を行なう必要がある。
     魚釣島へは、依然として中国公船が侵入を繰り返している。石垣島から8時間以上掛ることから国土保全ののため引き続き海保と海自の活躍に期待する。勿論政府の強い意志の表面化に期待する。
6 拉致問題
    北朝鮮に拉致された多くの人がいる。帰還に向けての活動は、現在も続けられているが未だ解決には至っていない。思えばS42年~46年頃S/Cで佐渡島付近海上水上機の確認を行なった記憶がある。当時、この問題が生起していたとすると、関係各省庁の連携できていたとすると問題解決も早かったのではと思う今日この頃です。
7 今年は
    今年は傘寿を迎える。考えようでは、一つの節目でもある。
    1日、6時52分、公式の日の出。雲や島の状況で7時ごろ朝日が出始めた。
    今年の家内安泰、世界平和を祈る。

1月1日日の出

獅子舞




    風邪清々しく、一年の門出にふさわしい新年を迎えることができた。
    書も自分なり完成を目指し日本文化の伝承の意義を見いだしたい。
    今年の計を書にしたため、年賀やメール、FBに表現した。
    「敬事而信」(誠をつくして、信ずることを行なう) と「游心」。

年賀状 


激動の世界情勢、ロシアのウクライナ侵攻で平和への議論がロシアには通じなかったことである。専政国家ゃ独裁国家など世界の半数以上がそれであり、民主国家と言われる国と二分する。防衛予算のGNP2%、5年間で43兆円完成は令和9年とした。日本の防衛政策の大転換である。
    なのに、未だ増税議論で、お茶を濁し防衛力整備の基盤となる武器・人・装備品の充実についての議論ができていない。
    この国を守るため何をすべきか早く解決してもらいたい。
    定年退官後の高官は、しっかり問題点を明らかにすべく聲を出してもらいたい。国会議員の言い分に納得すべきでない。
    今の自衛隊の戦力を過信するような発言は控え、末端で黙々と任務を遂行している隊員の命を守るのが高官の役目である。
    国内各社の社説には、「国民の命を守る決断」「抑止力の無能さ先制攻撃の危険性」などを解いた。産経・読売は平和を守る抑止力堅持を歓迎し、朝日・毎日は、他国のミサイル発射の根拠の是非を問題視し抑止力の無能さを説いた。特にウクライナ侵攻に当たって取材に当たった記者が負傷しているにもかかわらず未だに9条を守れという。反対している人は、ロシアや中国・北朝鮮で取材すればいい。
    
    こんなことを思う今日この頃である、願わくば、周辺国よ攻撃はしばし待て。
    我々日本が反撃能力体制が整うまで。
                                                                   完