一歩前進-20 夢とやりがいのある仕事へ

 浜松での教育が終了し意気揚々と新任地である松島基地に向かった。
 仙台から仙石線に乗った。
 当時は、快速はなく各駅停車の情緒豊かな町並みをゆっくりと満喫しながら赴任であった。
 昭和42年3月30日午後3時、矢本駅についた。閑散とした静かな町の向こうで、Fー86F雄姿がみえた。昼は閑散とした町中も夜は随分と賑やかだったと記憶する。
 45号線には、パチンコ屋、スナックが並び今の商工会のあるところは、役場だった。
 駅の北側は、殆ど田んぼ。人口2万人足らずの町も今は3万2千の大きな町に変わっている。
 勿論、当時の町並みも今はその多くは、変貌所謂「なかみち通り」は、大きく変わってしまっている。松島基地もまだ隊員1000人弱、基地内には、まだ海軍の残した航空機掩体をはじめ施設も多かった。
 当時を思い起こす「幹部公室(幹部食堂)」も平成12年の夏を最後に取り壊された。54年の宮城沖地震の際には、ペチカの一部を損傷したが幹部の憩いの場として歴史を刻んできた。
 当時から町と基地が一体となり共存共栄を柱として生活し発展を続けてきた。 
 こんな環境の中で松島基地に配属され、事後長期(3度の勤務、17年間)に渡り勤務できた事は、本当に幸福だった。
 (飛行隊冬期保命訓練)

パイロットとしての夢が一応果たし、次ぎは「一生の仕事」として自らを賭,努力することが果たして国民の認知を受け、自らを充実しうえるものだろうか?と形而上の不安や惑いが大きかった。
「夢から、やりがいのある仕事へ」の転機に余りにも多くの事象が今後起きていく。そして、先輩や仲間との生活の中から「A(エース)」にこだわり、「技量」や「人間性」に磨きをかけていった。