3.11 震災雑感②

続けて②を投函します。

写真も少し原文より多くします。

 

 

 

エ 支援物資
3日目から物資が少しずつ入ってきた。15日、市からの助言を受けながら優先して最大避難民を有する東小へと、名古屋から毛布2,000枚が届いた。

その後日赤からの毛布や個人や団体からの古着などの物資の支援も逐次入るようになった。
15日を過ぎた頃からは、物資管理を専門に行う係を作って対応した。
食糧は、配膳室に、他の物資は体育館、日常すぐ使用するものは、本部で管理した。
オ 避難所での自活へ
避難生活が長期化することは予想できたが、何時の時点で第2次避難場所への
移行、そして仮設住宅へとスムーズに移動していくかがポイントだった。

約1,500人の避難者は、市内外から集まり、家が流失した人、家族の安否
が不明のまま一時的に避難している人、余震が怖い人、電気や水道が不通である
とが理由である人、地震で家が危険な状態である人、少したった後には、避難所では3食食べられることなどが避難の理由であった。

避難の認識には、それぞれ正当な理由であり弁別することができない。
役や係を設けることにより、各係とも時間を定めながら積極的に活動するようになっていく。
特に不平や不満の対処にはあまり口を挟まず関係者同士で解決するようお願いしていった。
カ 避難所の衛生管理
被災から数日は、この時期としては寒さの厳しい日が続き、雪も降った。
最初の心配は、風邪。そして持病のある人、環境激変に伴う精神的異常、健康
悪化、高齢者、障害者などとの接し方などであった。
簡易トイレや学校内トイレの扱い方(水洗便所の水の確保ができない)には当
初苦労した。
簡易トイレは、3日目、さらに2日後には増設された。

場所の選定もさることながら、使用手順や衛生管理が問題であった。手順の履行が悪いと不衛生となる。
トイレットペーパの管理、消毒など避難者が積極的に行ってくれた。ただ、高齢者や障害者の人などには十分気をつける必要があった。
消毒液などの準備については、当初から行政にお願いしていたので思ったよりは早く措置ができたように思う。


体の衛生すなわち入浴には、特に高齢者・要介護者については、関係機関との
調整の上行うことが大切である。
10日後には、基地の浴場が開放されたが高齢者の入浴支援には注意を払い、
なるべく元気な人だけを入浴してもらい後は社会福祉協議会などにお願いした。
キ 部屋割り
避難者の体調やニーズ応じて部屋割りをした。避難者の要望に多くの皆さんが避難所で同じ避難者のために活動した。
衛生看護、診察室、ペット室、子供部屋など避難者のニーズに応じて対応した。
(3)報告/連絡
ア 災害対策本部への状況報告
行政から常時二人の職員が張り付いた。


避難所運営は、ボランティアでと言うような間違った考え方をする職員が大半
であった。この背景には、行政は、手が回らず要望には100%応じられないと
いう考え方、そして今だ不十分な組織体である自主防災組織にその運営をゆだね
たいという考えが優先したためか、極端な言い方をすると市の責任を全く果たし
得なかったこと、また、市として避難所運営について職員教育を全く行っていな
い現状で望んだこと、これらは避難所運営に大きく影響した。
学校には、無線機が常備されていたため災害対策本部とのやりとりには大きな
問題はなかった。ただし、無線機の運用要領が定まっていないこと、電波状況が
あまり良くなかったことなどで若干の不具合があった。
イ 連絡調整
上記の様に報告、調整に関する問題の解決には、直接市庁舎に赴き行った。
災対本部にどれだけ避難場所の状況を詳しく知らせるか、報告できるかが鍵で
ある。幸い避難所受付住民等1,500人はインパクトが大きかった。
市も良く面倒を見てくれた。
毎日定刻に、各部屋長、係に対し被害状況や市の活動状況などを知らせた。
3月31日まで来毎日、その後4月10日までは3日毎程度に情報提供すると
共に、要望事項、問題点の把握に努めた。
ウ 行政指示等
市の意向、方針、方向性など避難所に対する指示は少なかった。
これらの不具合は、4月以降、学校を明け渡す事が決定する頃顕著に表れた。
ただし、明け渡しが比較的スムーズにできたのは、学校施設の重要性や授業再開
への情報を幾度となく知らせていたため、避難者に開放に向けての意識が増大し
ていったのが功を奏したものと思われる。
この中には、市内の被害の状況や活動状況などの情報伝達も大切である。対策
本部では、こうした情報伝達に対する心構えは皆無であったと考える。
避難者の情報(全市及び周辺地域の被害の状況)は、安否確認を含め重要な要
素の一つである。
(4)防災ボランティア
被災当初から約15名の地域の防災役員や近隣区長さんが避難所で活動した。
全員良く連携し、3月23日まで全力で活動した。
東小学校に共に避難した、東地区の防災協議会の役員が多数いたので統制を図るため、協議会会長の茄子川氏に代表をお願いした細かなことは代表して小生が動き1週間後の避難所での夜勤は交代で行った。

茄子川氏は、良く全般を統制した。
私を含め地域での防災活動に優先して行ったたため、地域活動に大きく支障を来
した。時々地元にもどると、避難生活を地元で行っている住民は過酷な状態であっ
た。ヘドロを除去する人、水を独自で確保する人、食べ物を探し歩いている人など
地域の防災組織やコミニティーは崩壊していた。
12日朝、学校内において、防災役員、自衛隊OB、中学生に対しボランティア
の呼びかけをしたが手伝ってくれたのは2名だけだった。中学生は皆無だった。
自衛隊OBなどの参加も少なく避難者になっていたのは残念であった。
ボランティアにはいろいろな働きがある。部屋長、介護係、衛生係、物資係など
積極的に活動に参加してくれた方には本当に感謝したい。
避難場所での自立を促すのも当初のボランティア活動には大切である。
また、学校管理者である校長との連携は欠かせない。
避難者の皆さんは、この後、4月20日まで東小にとどまり、その後1中、コミ
セン、蔵ッパなどに移転し、20日には全員が学校から出た。
(5)先生方PTAの応援
彼らは組織活動が比較的慣れているため、避難民に対する支援や我々ボランティ
アとの調整活動、運営は比較的順調に推移した。
学校独自の備蓄状況がよくわからないが、放送システムの緊急状況での利用方法
や水や食糧、消耗品などの備蓄もある程度必要と思われた。
被災当初の避難民への支援はより細かな支援手順書が必要なのかもしれない。
次にPTAの応援態勢である。今回も一部応援をいただいたが子供たちへの支援
や先生方との調整などに参画できればもっと助かった。