一歩前進―39 (63 FC教官時の恐怖)

 S46.7.1第5飛行隊は第1航空団松島派遣隊として戦闘機操縦課程教育を担当することになった。S46.7.30、ボーイング727とF86Fが空中衝突し、727の乗員乗客156名が全員死亡した雫石事故の当事者であった。
 当時私はMOBで勤務していた。
午後2時2分頃緊急周波数で教官の隈1尉が「LILIC2、エアクラッシュ、#2は落下傘で降下中、727は降下中」のVOICEが入った。この時の思いではいつか書くとして、この事故のため約1年間は飛行中止となり、月1度程度要務飛行を行いながら技量保持をした。また、この間学生教育体制の立て直しが行われた。
 S48.8.23、1空松島派遣隊は、第7飛行隊を吸収し、第7飛行隊として新たにスタートした。帽子には「SEVEN」の字がかかれ、第5飛行隊のイメージを残した。そうした中、S47の末だったと思う。FC課程では、学生がある程度技量が上がってくると教育効率の上で教官一人で学生三人をつれて上がることが頻繁となる。FN、AT、AAGなど半分以上は、所謂、1vs3の飛行となった。
 確か、FNの最後の頃と記憶する。訓練スケジュールを作成するときに訓練幹部には他の教官にも乗って下さいとお願いするのだが「おまえの学生と飛ぶと殺される」といって誰も飛んでくれなかったものである。従って、ACの槇原といつも三人をつれて訓練しなければならず大変なストレスの毎日だった。
そんな中、いつもの通り、3人を引き連れFN訓練で上がった。
 空域での訓練が終わり約25000フィートから密集隊形で直線降下に入り、3機が安定したとき「IDLE NOW」とコールしPWRをIDLEにした。
 IDLEといっても長機は3〜5%足した位置にセットし僚機にPWRに余裕を与える。
 僚機は、PWRが足りないときは足し、多くて前にのめるときはS/Bを小さく出して行き足を止めながら隊形を保持する。
 最小燃料で降下する極めて大切な飛行要領の一つである。
 そうこうしていると、全機が翼内に接近し重なり、今にも衝突するかのようにばたばたし始めた。
 「離れろ」といっても彼らにはどうすることもできず、ますます近づいてくる「怖い、ぶつかる、どうしよう」・・・「おまえら離れろ」「殺すきか」と全国放送しながら1〜2分飛行した。そのうち彼ら三人の呼吸が合い全機が後方に動いた。
 私は、PWRを100%にし一目さんで逃げた。怖かった。
 疎開隊形のまま水平飛行に移り直線飛行における再空中集合を行い燃料ぎりぎりで着陸した。着陸後、各学生の頭を思いっきり叩いた。
 彼らは、一生懸命操作に専念していたため恐怖感はなかった。悔しい限りである。
 彼らにいった「おまえらに、飛行機の恐ろしさを教えてもらった。本当にありがとう」。この日槇原と生還祝いをした。
 これ以降、学生とIDLE LETDOWNを行うときは、必ず1vs1の時だけとした。
 この勇敢な学生「FCー133」立派に退官した。
 FCの教官とは、その後の教官としての心構え、学生教育とは、準備と実行、その後多くの操縦者を育てたがこの時のことだけは忘れなかった。