一歩前進-04 公募空士57期そして航空学生へ

 昭和37年3月13日、航空自衛隊の一員として最寄り基地千歳基地からC−46に搭乗し教育部隊である熊谷基地に入隊した。
 同期生は、防府基地百里基地と合わせ約4000人と聞いている。私は、第4中隊に所属し、約400名の隊員と新隊員教育を受けた。
 色々な人が居た。中・高校卒、他で職に就いていた人、○○組員、女から逃げてきた人様々だった。
だから、人付き合いも大変だった。喧嘩やいじめは、毎日あり、中には自衛隊生活がいやになり夜中に黙って居なくなった者も多く、その都度非常呼集がかかったものである。
 当時、安保改正も終わり世間の風当たりも異常強い時期でもあった。20キロ、40キロ行軍でもしようなら小学校にも入っていない子供から「税金泥棒がきた」などと言ってからかわれたものである。
 新隊員教育も無事終了し、70種類もの職種の中から、適正・課程での成績等が考慮され、管制塔要員として小牧基地にある第5術科学校に入校することになる。
 入校は、8月であったため、それまでの間三沢基地に臨時勤務する事になった。
 昭和37年7月の一月間、北空司令部で雑用に明け暮れた。当時は、まだ3空団は、小牧基地にありF86Dの部隊であった第3飛行隊が八戸に所在し、天ヶ森射場での訓練の受け入れを実施していた。この年第7飛行隊F−86Fが離陸後空中接触の事故をおこし、2名のパイロットが死亡した。
 8月、第5術科学校に入校するや、約6ヵ月の英語課程が始まった。
 毎日、8時間英語ばかりの教育があり、午後7時から2時間は、強制的に自習時間が設定されており大変ハードな時期を過ごした。就寝後同室では、英語で寝言を言うものもあった。小生自習時間は、航空学生受験のための勉強と大学受験のための勉強が主であった。英語をまじめに勉強していれば「英検1級」も夢ではなかったかもしれない。
 9月ごろ、「航空学生」の試験が実施され、11月頃2次試験の合格発表があった。同期の者数名受けたが後で知ったが、同学年で3名の合格者があった。この中で最後まで残ったのが小生と伊藤政彦である。
 管制塔要員の教育は、毎週テストがありこれによりクラス分けがあり不合格が続くと課程免となりコースの継続は不可となり他の職種に行くことになる。家庭免の確立は、英語課程終了後の専門課程に入ってから高くなる。専門課程の卒業は、国家試験の合格が条件である。
 20歳になると3曹に自動的に昇任する。
 38年2月、待望の航空学生合格の通知を受けた。