一歩前進-21 エースを狙え

 パイロットを目指して5年半(24歳)第4航空団第5飛行隊に配属され「お茶くみ」「掃除」「宴会係」の雑用全般の中で日一回の飛行訓練が続いた。
 戦闘機操縦課程を卒業したとはいえまだまだ半人前、一人前になるには更に6〜8ヶ月の訓練をし、アラート待機要員となってやっと認められるようになる。
卒業して意気揚々やや天狗になり部隊に来る。
当時は、航空自衛隊が出来てまだ日が浅く飛行隊のメンバーも若かった。
1000時間も飛べは、一人前特に戦技に対する意気込みはすばらしく、この中にはいるのは並大抵ではなかった。
パイロットには、射撃資格(空対空射撃、対地射爆撃(ロケット・爆弾・対地射撃))があり、1〜3級にわかれこれら全て1級を持っているのは、飛行隊で2〜3名であった。

射撃能力向上には、航空機の特性・性能ばかりでなくレーダーの原理、電圧の変化、ジャイロ原理、射撃理論、整備要領等々勉強しなければならない。
更に、戦闘機の操縦そのものの能力も必要である。要撃戦闘、空中戦闘等を含め状況に応ずる操作の習熟度の総合が射撃の精度を決定する。
 こんな中で、多くのすばらしい先輩が周りに渦巻いており毎日の様に絞られた。
メモ魔の梶原、AGGストラフィングの倉原、理論家の森 清、レーダーの菅、射撃の森垣、空中戦闘の櫨山、戦技の神様菅浪、人気の麻田・霜田、うるさい西島、同期の人気者小沢に藤川等々。
そして第7飛行隊には、うるさい田中 茂、射撃の神様木内、後の空幕長米川、村木、ラクピーの岡野等々まさに航空自衛隊の猛者がそこにいた。当時日本一の飛行隊であり、団であったと回顧する。
飛行隊や団の射撃大会等に優勝する機会を得るとともに、年間平均命中弾28発(100発搭載精度を競う、当時87/100・84/100が記録として残った)は、自分でも誇れる記録と思っている。これが出来たのも、前記の諸先輩のご教授と常に「エース」を目指してきた賜と自負している。
この時期に、勉強したことが後に、T−2導入時空対空射撃の射撃要領の設定、射撃理論の作成、教範の制定の役に立った。