一歩前進―43(73 緊急発進(バーストチェック))

 昭和44年当時、防空システムはまだマニュアル(手動)で行われていた。翌年あたりから前のバッジシステム(自動)の運用試験などが行われていたように思う。
 バッジからの情報は時として10〜20マイルの距離誤差や3000〜5000ft程度の高度誤差もあったように記憶する。だから手動でのコントロールを受けるときは安心して情報を活用できた。ただこれもコントローラーの技量によって大きな違いがあった。
 今は、バッジシステムと言っていない。
 緊急発進は、すべてマニュアルで行われていた。
 緊急発進も何度か経験し、長機として待機していたときの事である。編隊ブリーフィングはいつもの通りおえ、午後からの待機であった。
 日没1時間程度前と記憶する。「猪瀬もうそろそろ終わりだな」「もうないだろう」などと会話していたところ、珍しく(通常コックピットスタンバイから始まり、情報が前もって入る事が多かった)、ダイレクトS/Cが下令された。
ジャーンとベルがけたたましく鳴り「RED S/C」(ディスパッチャーは中前氏と思う)の声で飛行機に飛び乗った。
 落下傘を装着し、シートベルトを付け整備員(整備員は、パイロットが装具をつけている間、飛行機のエンジンを駆けてくれる)からスロットルを受け取りIDLEに進める。TWRと交信する。「まつしまTWR、RED S/C ORDER」「RGR、V300、A30、CONTーC/C、CHーX」のような指示をうけ、僚機の動きを見ながらタクシーしローリングTAKE−OFFする。
目標は日本海。新潟沖に出た頃機種・機数、高度などの情報が入ってきた。
 コントロールサイトは、佐渡に移され「2ベア、高度30000ft、速度400kt、進路200°」。彼我不明機距離とのが100NMを切った頃、「Req BURST CK(機関砲発射確認の許可を要求する)」をコールした。「STND BY」とのコールがあり、しばらくの間交信が途絶えた。
 多分SD(要撃管制官)は、SOC当直幕僚の許可を受けていたと思われる。すでに洋上に出ていたので前もって安全確保に努めた。3分ほどたって「CLR」の指示があった。初めての経験でありわくわくした。
 「サーキットIN、マスターアーモARM、トリガーピンOFF、BURST−NOW 」夕暮れ時でもあり、6門の銃からは曳光弾が見事な閃光となって目の前を飛び交った。同時に全門に詰めてあったゴムのパットもなくなった。
 ベアとの距離が50NMを切り遠くにコントレールが見えたとき。「RTB」の指示が出た。沈む夕日を背に松島基地に向かった。松島基地に着陸したときは、夜間着陸となっていた。
 着陸後が大変だった。武装員にぶつぶつ言われ「ごめんごめん」、ガンパットはなくなり、発射弾数(実弾)は数えなくてはならない。
 1門に50発搭載されており、6門300発の内何発発射したのか確認するのに2〜30分かかった。
 全部で50数発発射したと記憶する。
 なくなったパットは、その後この飛行機に補充される事はなかった。
 先輩から少しだけ小言を言われた。「あの飛行機はうるさい」
(ガンに取り付けられているパットは、機銃へのFOD防止、コックピット内への騒音防止などの目的で装備されていたがこの頃はあまり補充されなかった。全門のパットがないと飛行中コックピットはかなりうるさかった。