3.11 震災雑感①

 いわゆる3.11の震災から今年で13年目のお盆を迎える年になる。

議員を辞めて二年が過ぎ、地域で請われるままFBなどの情報発信係として時間を潰している。

 そんな中、震災後ボランティアで支援を続ける三重四日市大学の教授の計らいで今も尚中高生・大学生を対象として防災研修・ボランティア活動を年2回のペースで実施している。

 5.08.10 あおい地区小野会長の好意により、防災研修が行なわれた。

 地域で足湯の提供の後、昼食は地域の皆さんの震災経験を聞きながらの会食会、1時からは避難場所での心のケア、避難時運営などの講義、最後に移転後の町づくりについての講義をびっしり行なわれました。

 講義を聴いていて、避難所の安定期からの問題点と解決法など坐学的になっていることから、私の経験した内容とは随分かけ離れた内容になっていると感じ、今回発災から避難時運営の開始当初の重要性を知ってもらうために、今まで公開していなかった資料の一端を複数回にわけて提示したいと思います。参考にしてください。

 

 

 

震災雑感
24.1.1
1 はじめに
今回の東日本大震災においては想定していない事態に対する措置などが必然的に後
手の処置となって被災者に大きくのし上がった。
余震が続く中、各レベルすなわち「市民」「行政」「各防災組織」「避難所態勢」な
どさらに起こるであろう災害(宮城沖地震津波)に備える体制整備の早急の対応が
望まれる。
2 発災時の行動
発災時、3月定例議会の最終日であり一部事務組合等の報告会が行われいてた。
大きな揺れは、約3分程度続き議場内は大きな被害を受けた。すく様議会は閉会し、
各議員はそれぞれ地元へと散った。小生、防災交通課の職員に「速やかに対策本部の
開所」を促し、自宅へ戻った。
(1)被害確認
自宅では家の中を片付けていたがすぐ孫の迎えに行くよう促し(徒歩で)、小生は防災本部立ち上げのため、関の内児童公園に向かい防災倉庫から所掌のの用具などを準備し、区長と共に区内を巡回し異常の有無を確認した。
幸い、倒壊家屋はなく一部電線のたるみの家が1軒あったのみだった。
防災無線では「大津波警報発令」とか、うろ覚えだが「女川で10メートルの津波」「6メートルの津波」と言うのがきこえた。
区内の複数の人から、「津波大丈夫ですか」の問いに、「大丈夫、6メートルの津
波でもこの辺ではせいぜい50㎝程度たいしたことはありません」と間違った判断
で安心させていた。
防災担当役員と次の対応について相談し、市への報告や閉所の準備などを行った。
そんなとき、おおむね午後4時ごろ、浜須賀の区長さんが「津波だ逃げろ」と言
いながら北に向かった。
公園から南の方角を確認すると無いはずの作業用プレハブやガレキが迫ってくる
のが確認された。
すぐさま50メートルほど南下しながら、「津波です。速く逃げてください」とメ
ガホンで叫びながら情報伝達し、避難を促した。
午後4時10分、北上する津波を確認しシャッターを押した。


(2)避難
その後、自宅に戻り避難準備、弾帯、ペットボトル、財布、カメラ、懐中電気など
を持ち車両での避 難をすることにした。しかし、いつものところには鍵はなく結局
徒歩での避難となった。
途中、10分程度歩道橋で津波来襲を確認した。
3 避難誘導と避難所の受け入れ
(1)避難所への受け入れと移動
東松島市には、100個所を超える避難所が存在し、発災時は一時的にはその
場所が利用されたが津波の襲来で津波被害の少ない場所への避難となりかつ指定
場所以外の民間施設等への避難も数多く見られた。大曲浜のように津波予知によ
って整備された高台に避難した人々のほとんどが被害に遭ったり、渋滞(車によ
る自然渋滞、停電による信号不作動による渋滞、仙石線野蒜駅付近による信号機
誤作動状態による踏切付近の渋滞など)や津波の侵入速度が速かったため自動車
の流失に伴う被害など広範囲において人的被害が発生した。
津波発生により、地域の避難場所は次々と不適となり北へ北へと移動すること
になった。
イ 矢本東市民センター
センターには、約50名程度の下町・作田浦地区民を中心とした避難住民がいた。津波が国道45号線を超える旨の情報を提供すると下町地区の自主防災担当役員が主となり東小学校への避難を促し、全員が移動した。
ウ 東小学校
午後4時頃から避難者が殺到した。
校長をはじめ、先生方は積極的に市民の誘導に努めた。
この際土足のママでの侵入を許可し、2階3階の教室を提供した。避難者は、
い思いに各教室に避難拠点を持った。
5時頃には、第1次の避難者は1,000人程度であり情報入手をまった。
5時20分頃、状況確認のため仙石線まで南下したがこの時点ではすでに下町
の踏切まで冠水していた。
5時30分、22普連の偵察隊員が情報入手に駆けつけていた。
災害対策本部への連絡と部隊調整についてお願いし分かれた。
午後6時、再度学校に戻り今後の対策について茄子川東地区自主防災連合会会
長と調整し、今後の対応は、会長を中心として行動するよう意見集約をした。
この後、各教室を回り自衛隊OB、自主防役員、その他ボランティアを募った
が賛同者は少数だった。



12日の朝には東小学校の避難者は、1,445人となり地区最大の避難住民
受け持つことになった。
避難者の状況については後日はっきりするが、大曲浜の人、関の内の人、大溜、
四反走、下浦、作田浦、石巻市仙台市から避難してきた人もいた。
いわゆる、家を失った人、床上浸水、地震により半壊した人、余震が怖くて避
難している人、停電や水道が出ないため避難してきた人が多数いた。
(2)避難所生活
約1,500人の避難を受け入れの次は、必然的にさしあたって、夜の防寒対
策と朝食処置であった。
ア 防寒対策
市からの毛布などの支給は、人員の半分であり二人で1枚で当日は寒い夜を過
ごした。夕方からは、雪だった。
この日は、避難所での防寒対策不十分であったが肩寄せながら1日限りとの認
識を持ちながらの対応であった。
後には多くの情報が入り津波被害を直接受け海水につかった人は、低体温とな
った人が数多かったと聞く。



イ 配食(食事/水など)
自衛隊では、特にパイロットは保命訓練と称して夏・冬2回、夏海上及び冬山
岳で訓練を受けてきた。
航空機から脱出後海上での保命要領、山岳地域での保命の要領について学び訓
練したものである。
「脱出後は、3日間は飲まず食わずでも大丈夫。」を思い出しながら、避難者に
頑張るようにお願いした。
幸いにもある程度水が手に入った。井戸水を複数の農家の人からいただいた。
12日の配食は一応できたが1日1食、2日目は2食、3日目から3食届くよ
うになった。
この頃は、少しでも口に入ればと思い、少量の食事を分け合って食べることができた。
この頃賞味期限3日遅れのおむすびの特徴(口にするとぼろぼろ落ちる)をしり、菓子パンは、においがきつくなり、食パンは、以外と長持ちすることなどがわかった。当初の一週間、先生方の統制がとれた配食活動や配食管理に助けられた。
配水は大変だった。
当初は一人500ccだけとした。
飲み水としての配水だったが幼児のいる人には温水も用意し優先して配水等行った。また、残余は備蓄を考えての配水配食だったので夜は必ず複数での不寝番活動(水・食事の番)を行った。事実若干のトラブルもあった。
3日後からは、全教室等の室長を定め、5日頃からは自然と避難所生活が長期
化することを予想し、役割を決めた。たとえば「給食係」「配水係」「衛生係」「物
資係」「受付係」「救護係」「清掃係」などである。
17日頃からは、避難所運営は、おおむね順調に推移していった。



ウ 避難者の健康管理
一日目、二日目は、健康を害した人が多発した。
特に一日目は、救急車での搬入要望が多かったが市内には救急車が一台だったこともあり苦労した。
学校にあった薬や近所からの救急薬品の入手により当面の介護などの活動を行った。当初、救急医療施設は、真壁病院、日赤、藤野整形などの中核病院の一部が対応できる状態であった。
救急に搬出しなければならないような人以外で介護の必要な人を1個所に集め
集中的に面倒を見るようにした。介護に当たる人が多数おり感謝した。
ただし、要介護者や精神に異常が出てしまった人、独り身の高齢者の人などは
社協や市にお願いした。
5日頃からは、医療チームが入ってきたので助かった。
医療チームが活動しやすいように診療室を設けた。勿論各部屋での診察活動等
も行ってもらった。
風邪の惹いた人などは、隔離できるように心がけた。
風邪薬程度の医薬品はこの頃から支援物資として入手できた。