一歩前進−37 (23) 操縦教官と730

 昭和46年7月、当時、F4EJの導入に伴い戦闘機操縦者の教育所要が増え、松島基地第5飛行隊の1個飛行隊を改編し、教育飛行隊とした。この時飛行隊の編隊長以上の資格をを有していた16名が教官として残り、他の半数以上の操縦者は、他の飛行隊へと転勤していった。
小生も教官として残り以後8年間F−86F・T−2の教官として松島基地に勤務する事になる。
 F−86Fでの思い出は、なんと言っても教育開始間もない昭和46年7月30日の雫石上空での事故である。
 午前中1度学生と訓練し「モーボ(MOBO)」で学生に対しブリィーフイングをしながら勤務していた。14:01「ライラック2、727とエアクラッシュ」・・・・727は、墜落。 学生ベイルアウト・・・落下傘が開いた。」と言うような無線が入った。(これは、大変なことになった。)と同時に、学生が脱出出来たことに大きな安堵感を覚えた。裁判は、10年以上の長期に渡り最高裁まで行き、教官は4年の執行猶予、学生無罪の判決がなされた。
この事故を機に、航空行政も大きく変化し、種々の対策がとられた。
緊急対策要綱が出され自衛隊の訓練空域と民間機の訓練空域あるいは、航空路が逐次整備されていき完全に分離されると共に、航空路管制に係わるレーダーモニター・識別等が整備されていく。
勿論、空自の教育体系も新機種導入時期と重なり大きく変化していく。
40年後の今日、訓練の殆どは、太平洋あるいは日本海の公海上に設定された「訓練空域」で実施され、航空路とは完全に分離された。更に、訓練中は、空自レーダーサイトのモニター下にあり安全対策がとられている。
しかし、自国を守る自衛隊が陸地の状況を知り得るのは、陸自の演習場のみという残念な状況にあるのも確かである。
 今は、当時のことを知る現役自衛官は少ない。
 教官の隈さんは数年前に他界、学生だった市川は、定年後静かに過ごしている。また、この時以降、隈と共に裁判所や多くの関係者との調整や裁判に対応した、同期の管正昭氏は病に倒れこれもまた、3年ほど前に他界した。
 この事故は、操縦者と一般幹部や隊員との意思の疎通の状態を変えていった。様々な意見がある。しかし、この事故で隈や市川のみならず空自パイロットは在任扱いと成り、ずいぶんと検察にいじめられたものである。
 小生も盛岡地検に呼ばれ調べられた。「おまえたちは、どんな訓練をしていたのだ」などと、検察官に調べられた。我々は犯罪者ではない、きちっと現状を調べてほしいといったものだった。
 最近、先輩の佐藤守氏が「自衛隊の犯罪」と題して本を書いた。真実が書かれてます。
 是非とも読んでください。