一歩前進−27 緊急待機(スクランブル待機)

 昭和42年3月松島基地に赴任して6ヶ月、射撃資格は不十分であったがこの年の10月、初めての実任務に就くことになった。
当時、F−86Fでのアラート待機は、日の出30前から日没30分後までの勤務であり夜間は、F−104が待機についていた。
従って、日の出の2時間前から準備をし、一時間前までには準備を完了し司令部に報告していた。夏の期間は、朝2時には起床し整備員共々準備をしたものである。
 5分待機(発進指令後5分間でエンジンをかけ離陸する)は、2名。その他の待機が2名の計4名が任務についていた。
5分待機のパイロットは、装具を常に装着し、トイレ(大便)に行くときは、他の者と交代する事になる。特に、冬期間に於いては、耐水服等を来ているので大変である。当時、パイロットの水虫は冬期に酷くなったものである。
当時の警戒監視体制は、手動であり米軍から返還されたものを使用しており時代の変化と共に自動への切り替えの時期でもあった。
第5飛行隊が解散を迎える昭和46年には、バッジシステム自動化への第一歩を踏み出すこととなる。
こんな中での待機であり、よく突然ベルが鳴り発進したものである。
第5飛行隊が解散するまで10数回の発進を経験する
最初の緊急発進は、幹部候補生学校卒業後の昭和43年の夏であったと記憶する。
それは、運良くコックピットスタンバイ(彼我不明機接近の情報があらかじめ入り、エンジンをかけないままでコックピット内で待機する)から始まった。コックピットに入り10分ほどの時間があった。
「汗がで」「武者震いで足がガクガク」「息が荒くなり」「独特の緊張感」で体が膠着したことを覚えている。
ベルがけたたましくなり、「ホットスクランブル」の合図でエンジンを駆けタクシーを開始し、必死にリーダーの櫨山さんの後を追い離陸することが出来た。「最初のスクランブル」であり一人前になった証ともなった時でもあった。
一度経験すると、あとは手順を実施するのみである。
しかし、リーダーで発進するのと僚機で発進するとでは大きな違いがある。僚機で任務に就いている場合は、精神的に安堵感がある。リーダーの支持に100%従い、任務を遂行すれば良かったが、リーダーで任務に就く場合は責任が重くのしかかつてきたものである。
こんな中で一番気になっていたことが国防という任務と国民の認識であった。当時はまだ多くの国民の国防に対する認識や自衛隊に対する世論が厳しく、「俺の一発の弾丸が及ぼす国内外の影響はいかがなものか?」「誰が責任をとってくれるのか」「きっと俺に全部責任をかぶせてくるんだろうな」そんな思いを持ちながらの実任務であった。
でも、「ふるさとを守れるのは俺達だけだ」の気概で毎日を過ごしたものである。
従って、リーダーで任務をつくときには、後輩達には、「処置は、俺がするおまえは、実状を正しく記録し正確に報告するよう努めよ」と必ずブリーフィングしたものである。
状況の確認、武器の使用、彼我不明機の行動の監視等、国の代表としての認識を常に持ったパイロットとしての自衛隊生活であった。
後日、北部航空方面隊での作戦運用幕僚としての体験も記してみたい。